教師の技能

指示の研究
言葉かけの研究
指示の研究

指示の研究
 感想文を書かせているとき、
「もっとくわしくかきなさい」
と指示する。
 子どもはくわしく書けるようになるだろうか。
 否である。
 直接いいたいことをいっても、子どもの動きは変わらない。
 教師は、「まったく、何で書けないの」と子どものせいにする。
 子どもが悪いのか。
 否である。

 この場合「もっとくわしく書きなさい」というのは、何の指示もしないに等しい。
 プロの教師なら、「子どもが変化する指示」をしたいものである。

 指示について考えていこう。 
 以前「AさせたいならBといえ」というのがはやったことがある。
 簡単にいえば、指示は直積的なものより、間接的なものがいいということである。
 これは、指示の原則でもある。知らない人が多いのだが…

「AさせたいならBといえ」について、いろいろな角度から考えていこう。
      
なぜ「AさせたいならBといえ」(間接的指示)なのか
 作文を書かせるとき、
「くわしく書きなさい」
といっても、子どもはくわしく書くようにならない。
 掃除のとき、
「もっときちんとはきなさい」
といっても、子どもはきちんとはくようにはならない。
 どうしてだろうか。
 
 「くわしく書く」とはどういうことか、「きちんとはく」とはどういうことか、中身がわからないのである。漠然としているのである。
 いいたいことを直接いってもダメな場合は多い。
「毎日家庭学習をやりなさい」@
「忘れ物をしないようにしなさい」A
「進んで発言しなさい」B
 このようにいっても、子どもの行動は変わらない。
 @Aの場合、前述したように「中身がわからない」ということではない。「なぜそうしなければならないのか」という必然性がなく、必要性もないからである。
 Bの場合は、いろいろな要素がからみあっている。
 ・何をいったらいいかわからない。
 ・発言しなくてもいいと思っている。
 ・発言したら笑われるんじゃないかとおもっている。

 いいたいことを直接いってもダメなのはどうしてか、まとめてみよう。
 中身がわからない。
 必然性・必要性がない。
 何かの障害がある。
 間接的指示の必要性が、少しわかってきた。
イメージを持たせる
 中身がわからないというのは、具体的にイメージできないということである。
 例えば、リコーダーの指導。
「もっときれいな音でふきなさい」
 これではどうしていいかがわからない。きれいな音がイメージできているのか。まずは、きれいな音とはこういう音だ ということを教えなければいけないだろう。これは教師が見本を見せればいい。
 きれいな音はわかったが、どうやったらきれいな音が出せるかがわからない。これが次なる問題である。
「シャボン玉を割らないように、そっとそっと少しずつふくらますようにふいてみよう」
 音読の指導。
「さようなら」
という部分を読ませる。
「君の親友が行ってしまう。もう二度と会えないかもしれない」
「船が出ていく。だんだん船が離れていく。手を振ろう」
というのはどうだろう。
 場面をイメージするといい方が変わってくる。
例えをつかう
 はじめの例について考えてみよう。
 シャボン玉をふくとき、一氣に強くふく人はいないだろう。そんなことをしたら、すぐに割れてしまうからである。「すーっ」というようにそっとふく。このふき方が、リコーダーのふき方と似ている。
 子どもたちが経験したことがあるもの、つまり、
子どもたちにとって身近なものに例える
と、子どもは変化する。

 なぜ、身近なものに例えると、子どもは変化するのだろうか。
 自分がよく使う指示を検討することによって、秘密を探っていきたい。

 跳び箱運動、着地の指導をするときの指示である。
忍者のように降りなさい。
猫のようにふわーっと降りなさい。
 忍者は音を立てないで行動する。音を立てたら敵に見つかってしまうからである。
 「忍者は音を立てないで行動する」子どもたちは、このようなイメージを持っている。だから、「忍者のように〜」といわれれば、「あっ、音を立てないように着地するんだ」ということがわかる。
 猫の場合も同様である。
 子どもたちは、忍者も猫もよく知っている。ほとんどの子が、テレビなどで忍者を見たことがあるだろう。猫が壁から降りるところを見たことがあるだろう。
 一方、跳び箱運動の着地はどうしたらいいかわからない。だから、「膝を曲げて降りなさい」「静かに降りなさい」といわれてもぴんとこない。
 ぴんとこないまま、教師にいわれるまま練習する。
 たまたま、柔らかく着地できるようになる子もいるが、多くは、できるようにならない。わけのわからないまま練習するのだから当然だろう。たまたまできた子も、意味がわかってできたわけではない。

 これに対して、「猫のようにふわーっと降りなさい」というとどうなるか。
 授業後の作文を紹介しよう。
 着地 「猫のようにふわーっと降りなさい」
 
 猫は、犬と違って、ブロックべいぐらいからよく降りるときに、あまり音を出さないから、先生は「猫のように」といったんだと思う。
                               4年 ゆう

  今までの、自分の着地のしかたは、ただ、降りればいいのかなーと思っていたんだけど、今度の2時間目の授業では、「猫のようにふわーっと降りなさい」といったので、ぼくは、深沢くんのとかを見てがんばって、ドタッとなっても、どうしてなるのか考えた。
  どういうふうに考えたかというと、音はかかと、足全体でなるのだからつ
 ま先だけで降りればいいと思った。
  それをぼくはやってみたら、うまくできたので、これをやればうまくふわー っと猫みたいに降りられるのかなーっと思った。
                               4年 あべちゃん

  「猫のように〜」といわれ、子どもたちは猫の着地を思い浮かべる。
    音を立てないで静かに降りる。
    軽く降りる。
    ふわっと、柔らかく降りる。 
 それから、どのようにしたら「猫のように〜」降りられるかを考える。
 つまり、「猫のようにふわーっと降りなさい」という指示は、子どもの思考を促したのだ。
 「膝を曲げて降りなさい」「静かに降りなさい」という指示は、子どもの思考を促さない。子どもたちは、わけのわからないまま「やらされている」状態なのである。
 
 「子どもたちにとって身近なものに例える」と子どもは変化する。
 それは思考を促すからである。
 やらされてやるのではなく、自分で考え行動するからである。
 「AさせたいならB」というのは、「子どもの思考を促し、自分で考え行動できるようにする」ための(1つの)方法である。

 どうイメージを持たせるか
 「AさせたいならB」の指示は、子どもの思考を促す。具体的なイメージを持たせることができる。
 それはわかった。
 しかし、イメージを持たせればそれでいいということにはならない。
 どんなイメージを持たせるかが問題である。
 「大きな声で歌いなさい」と指示する。前述した「くわしく書きなさい」「きちんとはきなさい」よりはわかりやすい。子どもたちの声は大きくなる。
 中にはどなる子がいる。同じように指示したのに、どなる子もいれば、どならないで声を大きくする子もいる。
 子どもによって、受け取り方が違うのである。つまり、イメージするものが違う。だから、違いが生じるのであろう。
 「大きな声」といわれたとき、あなたはどんな声をイメージするだろうか。
  (例) 1 応援団の声
      2 大声コンテストで出すような声
      3 叫び声
      4 どなり声
      5 オペラ歌手のような声
 人によって思い浮かべるものは違うだろう。
 経験、興味、関心などが違うから、イメージするものも違うのだろう。

 歌を歌わせる場合、1から4をイメージさせるのは適当ではない。美しさに目が向かなくなるからである。
 歌わせる場合は、声量があり美しいという「大きな声」をイメージさせたい。
 1から5の中では5「オペラ歌手のような声」がよい。
 「オペラ歌手のように」といわれて、叫び声やどなり声をイメージする子はいない。
 ただイメージさせればいいというものではないことがわかるだろう。
 このことについて、私は大失敗した経験がある。
 『カタツムリ』(リューユイ)という詩を音読させたときのことである。
 教室が壊れるくらいの声で読みなさい。
と指示した。
 子どもたちは声を張り上げて読んだ。確かに声は大きかったが、美しさのかけらもなかった。
 上のように指示したのは、大きな声を出させるためである。音読や発表のとき声が小さい子がいたので、何とか声を出させたいと思っていたのである。
 当時(1987年)、「間接生の原理」(「AさせたいならB」)を意識していた。「大きな声」といってもどれくらいの声を出せばいいのかわからないだろうと思い、「教室が壊れるくらいの声で」といったのである。
 しかし、前述したように、声を張り上げる大声競争になってしまった。声は大きくなったが、非常にきたない音読になってしまったのである。
 「教室が壊れるくらい」はよくない。「壊す」という言葉から、美しいイメージは浮かばない。物を壊す…つまり、破壊である。どなる、がなり立てる読みになるのは当然かもしれない。
 
 それでは、どうすればよかったのか。
 例えば、「隣の教室の人に届くような声で読みなさい」といったらどうだろう。
「人に聴かせる」ことを意識させれば、声を張り上げる読みにはならなかっただろう。
 当時の私は、「指示の間接生」にのみ着目し、「どのようなイメージを持たせるか」ということについて深く考えていなかった。
 「大きな声」といってもいろいろある。音読の場合は、「よく響く声」「よくとおる声」をイメージさせるべきだったのだ。

 まとめてみよう。
 イメージを持たせる。
ことが大切である。
 何をやっていいかわからないというのは、イメージできない状態なのである。
 イメージを持たせるためには、
 子どもたちにとって身近なものに例える。
のがいい。
 そうすると、
 子どもの思考を促す。
ことができる。
 思考を促された子どもたちは、「やらされる」のではなく、自分で考えて行動するようになる。
 ただし、次の点に氣をつけたい。
 適当でないものをイメージさせない。
 各人に勝手なイメージを持たせない(ある程度共通したイメージを持たせる)。

     
 必然性・必要性を持たせる
 氣をつけ。前へーならえ。はやく並びなさい。
 朝会でくり返されるこの光景…
 子どもたちは、毎回毎回同じような注意をされる。
 いつまでたっても自主的に並ぶようにならない。
 上のような指示は効果がないのである。

 例えば私は次のように指示する。
 背が一番高くなるようにすーっと立ってごらん。
 「氣をつけ、前へーならえ」「姿勢をよくしなさい」なんていうよりは、ずっと効果的である。
 週番をやっているときのこと、子どもたちの姿勢があまりにもよくないので、次のようにいった。
「みんなの姿勢、よくありませんね。おじいさんやおばあさんみたいですね。氣をつけの姿勢をしてごらん。あばら骨をすーっと持ち上げてごらん。そうそう。いい姿勢になってきました」
「自分の背が一番高くなるように立ってごらんなさい」
 子どもたちの姿勢は、別人のようによくなった。
 ある人は、
「杉渕先生の指示で子どもががらっと変わったね。やはり、教師の指示によるんだなあ」
といった。
 しかし、次の週は元に戻っていた。
「氣をつけー。前へーならえ」
 いつもの指導がはじまる。指導者が変わると、すぐに戻ってしまうのである。
 いくら「AさせたいならB」といっても、その場限りになってしまうのでは何にもならない。
 確かに子どもはよくなる。しかし、すぐ元に戻ってしまう。
 毎回、「AさせたいならB」といえばいいのか?
 「AさせたいならB」といわれなければ並べないのか?

 一方、元に戻らない子どもたちもいた。
 2年生である(当時受け持っていた学年、3学級あった)。
 教師に指示されなくても並ぶ。姿勢もいい。話を聴く態度もいい。3人の担任が、継続的に指導しているからだろう。
 他学年の子どもたちは、教師が号令をかけるまで整列しなくていいと思っているのだろう。教師が指示するまでしゃべっている。整列しない。もちろん、自ら並ぼうとはしない。整列する必然性、必要性を感じていないのだと思う。
 認識を変える
 いい指示を出しても、その場限りになっては何にもならない。
 子どもたちが自分で並ぶように指導すべきではないか。
 子どもたちが自分たちで並べないのは、「教師の号令がかかるまでは整列しなくていい」という認識があるからだろう。「自分たちで並ぶ物ものだ」という認識があれば、教師の指示なしで並べると思う。
 発言しないのも同じことだろう。「手を挙げていないのだから、発言しなくていい」と思っている。この子たちには、「授業は全員で創るものだ」という認識がない。また、「間違ったことをいったらいけない」「おかしなことをいってはいけない」という認識がある。
 このような認識を変えない限り、教師の努力は徒労に終わるだろう。
 「AさせたいならB」の指示は、子どもの認識を変えるためにこそ使うべきである。
 まとめ
 1 イメージを持たせる。
 2 必然性・必要性を持たせる。
 3 認識を変える。
 指示のつくり方
「どのように指示を考えるのですか」
ときかれたことがある。答えられなかった。
 どうやってつくるのか…即答できない。自分でもよくわからないのである。
 あるとき、ひらめくのである。
 ただし、そのことに関しては、ずーっと考えている。頭が痛くなるくらい考える、寝ても覚めてもかんがえる ことはしている。
 こうしているうちに、ハッとひらめくのである。
 例えば…ある学級の指導をしていたときのことである。
 歌の指導をしていた。
 相手は1年生だったこともあり、苦戦。なかなか歌う声が出ない。
 『おなかの体操』をやらせる。
 見本を示すのだが、子どもたちの声は変わらない。
 地声のままである。
 鎌田氏(故人 西六郷少年少女合唱団指揮者…私の歌の師匠である人)は、犬のキャンキャンという鳴き声が有効だといった。
 しかし、やらせてもうまくいかない。
 何かないか…
 やっているうちにひらめいた。
 インディアンの雄叫びはどうだろうか。
 口に手を当てインディアンのまねをやらせてはどうだろうか。
 効果絶大!
 2人以外、歌う声になった。
 残りの2人も、何回かやらせると歌う声になった。

 この場合は、『おなかの体操』→インディアンの雄叫びのコンビネーションがよかった。
 『おなかの体操』は、鎌田氏がつくったもので、発声の基本を押さえている。
 インディアンの雄叫びは、子どもがよく知っているものである。
 基本をふまえる。
 子どもたちがよく知っているものに例える。

 私の場合、これらをふまえて指示をつくってきたようである。

言葉かけの研究

 言葉の研究をしましょう。
 子どもを活かすも殺すも言葉次第です。
 言葉は重要です。
 昔から、言葉は言霊といわれます。
  ※「ことだま」ではなく、正しくは「ことたま」と読みます。
  「霊」とは命のことです。

 一語一恵(いちごいちえ)

 言霊(ことたま)といわれるように言葉には力があります。
 黙って行動する教師の言葉には、絶大なる力があります。
 
 一言ひとことがこどもを成長させる…そんな言葉かけをしたいものですね。
 一言で、子どもが元氣になる…そんな言葉かけをしたいものです。

 大原則

 言葉は人についてくる

 言葉は単独で存在しない というのが私の考えです。
 言葉は人についてくるのです。
 同じことをいわれて、「そうだ」と納得するときと、「なにいってるんだ」と納得しないときがあるでしょう。
 私にも多くの経験があります。
「研究には、仮説が必要だ」
 教師になって3年目。
 校内研究会の席で、こういいました。
「なにいってるんだ」
という反応でした。
 ところが1か月後…

 講師の先生が
「研究には、仮説が必要だ」
といいました。
「研究には、仮説が必要よね」

 私は、腹が立ちました。
 同じことをいったのに…

 反応は180度違うのです。

 何をいったかではなく、だれがいったか なのです。
 特に、日本の場合は。

 若いころは、納得できませんでした。
 正論が通らない!

 今でもそう思いますが…

 世の中、正論は通りません(笑)
 ストレートには。
 そこで、工夫が必要になってくるのです。

 体温が伝わっているか
 
 言葉が一人歩きしていることがあります。
 かっこいいことをいうのですが、子どもは動きません。
 子どもに伝わりません。
 言葉に体温がありますか。
 子どもに、体温が伝わっていますか。
  

  いいたいことを直接いわない

   授業開始
  
   社会の授業。
   江戸時代と明治時代の絵を比較させました。
   氣づいたことをいわせます。
  「教科書を見ていいのは1分間です。よーい、どん」
   パッと始めてしまいます。
  「えっ?」
  「無理じゃない」
  
   1分後、教科書を閉じさせます。
  「江戸時代と明治時代の違いをいってもらいます」
  「教科書を見てはいけません」
  
   発表させます。
   隠れて教科書を見ている子がいます。
   いつもは、見ないのに。
   「見るな」といわれると見るのです。
   人間の心理ですね。
  
   かたいことはいいません。
   大目に見ます。
   何しろ、教科書を「よく見る」ための授業なのです。
   私の作戦は、まんまと大成功。
  
  「いつもは見なさいっていっても見ないのに、どうして見る
   の?」
   子どもたちは笑っていました。
   教科書をよく見ていました。
   資料集を引っ張り出して調べている子もいました。
  
   こちらがやってほしいことを直接いっても、効果少なし。
   たとえば、「勉強しなさい」
   いわれればいわれるほど、しませんね。