狭 間 |
教師になって、23年。 「よくここまで育った」ということが、何度もありました。 しかし、私の手を離れると…戻ってしまうのです。 これには、いろいろな考え方があります。 「戻るということは、本物でなかったということ」 「子どもを芯から変えることができていないということ」 師匠にいわれれば、納得します。 しかし、自分の学級もきちんとできない人には、いわれたくない ですね(笑) Jリーグ、野球、その他いろいろ。 監督が替われば、チームが選手が替わりますね。 斎藤喜博先生もいっています。 「私がいなくなっても、その仕事が続いたのなら、私の仕事はたい したことがなかったのだ」 つまり、いなくなれば崩れて当然という考えです。 今の私は、両者の狭間に立っています。
◆に教育が存在すると思うのです。 崩れない… 難しいですね。 少なくとも、私の実力では無理です。 崩れる… くやしいです。 ただ、その子がやる氣になったとき「火種」になるものは伝えたい ですね。 |
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教育、中でも学級創りは狭間にあると思います。
子ども現実があります。 どうしょうもない現実があります。 たとえば、家庭崩壊です。 かつて受け持った子どもにも、ものすごい家庭がありました。 わずか10歳にして、重い人生を背負っているのです。 子どもを取り巻く環境。 家庭、地域、社会… そして、教育界の現実。 厳しいですね。 とくに公教育では。 一生懸命やる人が認められない。 それどころが、バッシングされる。 その他いろいろ。 現実だけを見ていると、救いようがありません。 教師の中にも、現実のみを見ている人がいます。 愚痴のオンパレード。 自分のことについては反省なし(笑) 一方、理想ばかり追っている人もいます。 口では、すばらしいことをいいます。 「いいこというなー」 と感心してしまいます。 しかし、学級を見ると… 羊頭狗肉もいいところです。 こういう人は、現実を語りません。 このような子に育ってほしい… 教師なら、理想をもっていると思います。 思いやりがある、自ら行動する、などなど。 現実を見ながら、現実をどう変えていくか。 現実と理想の架け橋になるのが授業です。 学級創りは、現実と理想の狭間にあり。 この「狭間」をどうするか。 考えていきたいと思います。 |
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やさしさ ←◆→ きびしさ 私は、ある人から見ると「きびしい」といわれます。 子どもに対して、きびしいというのです。 私から見ると、その方はやさしいのではなく「甘やかし」に見えます。 「やさしい」「きびしい」のとらえ方は、人それぞれです。 ◆意味は? 「やさしい」とは、どういうことをいうのでしょうか。 ちょっとつっこまれると、わからなくなりませんか。 子どもに対してやさしい… 「きびしい」も同様です。 ◆とらえ方 やさしさ→母性 きびしさ→父性 やさしさ→子どもを丸ごと包み込む まず、すべてを受け入れる。 →安心 すべてを受け止める きびしさ→現在という点で見ない。 少なくとも、将来を見通して線で見る。 立派な大人になるために、今何をすべきか →自立 考えて接する。 などなど。 考えてみると、難しいです。 考えてみると、おもしろいです。 さて、狭間です。 「やさしいけど、きびしい」 「きびしいけど、やさしい」 「やさしさの中のきびしさ」 「きびしさの中のやさしさ」 子どもに対してどう接していくか… これからも、考えていきたいと思います。 |
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実践 ← ◆ → 理論 この狭間が、教材研究です。 理論では、授業できません。 考えと行動は、別物だからです。 いくら理論が立派でも、現場では役に立ちません(笑) 役立たせるために、教材研究をするのです。 考えと行動を一致するように努力・工夫するのが教材研究です。 いかに具体レベルにおろせるか? それがポイントです。 多くの場合、中途半端ですね。 理論、指導案が立派だけど…授業は… よく見かけ風景です。 「どんな氣持ちですか」 典型的な発問ですね。 どんなときにも使えます。 でも、安易です。 それだけに、効果がありません(笑) そのまま直接指摘しても、子どもの動きは変わりません。 ストレートは、通じないのです。 イメージとしては、意訳ですね。 そのまま訳すのではなく、ニュアンスを訳す。 言葉の裏にあるメッセージをとらえ、相手にわかるように伝える |
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心 ← ◆ → 技術 「杉渕さん、教育は技術じゃないのよ、心よ」 若いころ、何十回いわれたでしょう? 納得できませんでした。 「心が大切」だというのです。 「子どもを愛することが大切だ」というのです。 20代の私は、「そんなのあたりまえじゃないか」と思いました。 つまり、教師にとって「子どもを愛する」ことは大前提なのです。 もやもやしていました。 そんなとき、大村はま先生の本を読みました。 「教えるということ」です。 本の中に、明確な回答がありました。 一方…教育技術の法則化運動にかかわっていたので… 技術のことは、かなり意識していました。 今考えると、私の意識していたことは「技能」ですね。 技術ではありません。 技術は、単独で存在します。 技能は、単独には存在しません。 技能は、技術+人 →臨機応変の使い分け です。 他の団体にもたくさんかかわっていました。 サークルや大会に行くと、いわれるのです。 「小手先の技術」 「HOW TOだ」 ハウツーって大事ではないですか? 技術がなかったら、何もできないのではないでしょうか。 教師なら、確かな指導技術をもつべきではないでしょか。 心と技術、どちらも大切です。 車の両輪です。 『ドラゴン桜』でいえば、竹馬ですね(笑) または、コインの表と裏ともいえます。 |
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生活指導 ← ◆ → 授業 生活指導をきちんとしないと授業が成立しない! 中学校の先生方は、大変です。 思春期の子どもたちは、自我が目覚めてきています。 口では動かなくなります。 「じゃあ、おまえはどうなんだよ」 大人の矛盾をついてきます。 私の知り合いに中学校の教師がいます。 ヘビースモーカーです。 喫煙している生徒を指導しました。 「たばこをやめなさい。体によくないんだよ」 「体によくないものを、先生だって吸っているじゃないか」 「今日からやめる」 これには、びっくりしたようです。 その後、友人はたばこをやめました。 生徒立ちも、吸わなくなりました。 生活指導とは、教師自らが変わることなのだと思います。 小学校の場合も同様です。 高学年になると、口では動きません。 教師の行動をよーく見ています。 言葉と行動が一致しているか 彼らの視点はそこにあります。 生活指導とは、教師の言葉と行動が一致すること だと思います。 授業。 中学校の先生方は、生活指導と部活で時間を取られます。 授業の方は… 私が見た限りにおいては…うーん…というのが多かったです。 実力ある先生の授業は違いました。 中三の子どもたちが、憲法九条について話し合っていました。 受験前の忙しい時期です。 活発に話し合っていました。 活き活きしていました。 他の学年、学級を見ました。 死んでいました(笑) その先生の授業だけが、生きていました。 これは、何を物語っているのでしょうか? 生活指導は、人間対人間、授業は、学問対人間です。 「おもしろいなー」 「そんな意味があるのか」 「もっと知りたい」 子どもたちの知的好奇心を刺激し、学問の入り口へ導きます。 勉強は、しなくてはいけないもの… というより、 「したいもの」ですね。 「女王の教室」でも、阿久津先生がいっていましたね。 義務ではなく権利なのです。 子どもたちは学ぶ楽しさを教えてもらっていない… 不幸な子どもたちがいます。 勉強はやみつきになります。 おもしろくてたまらなくなるのです。 いわゆる、「はまって」しまうのです。 私流にいえば「楽習」です。 生活指導が軌道に乗ってくると、授業もよくなります。 授業がよくなると、生活指導上の問題が少なくなります。 どちらから切り込むか 人それぞれです。 私の場合は、授業の中で生活指導をしています。 融合している、リンクしている、連動している という感じです。 |
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緊張 ← ◆ → リラックス ★女王の教室 今はやりの?「女王の教室」 「あなたたち、まだそんなこといっているの」 よくまねしています。 教室には、緊張が必要です。 前述した例は極端です。 「子どもを緊張させてはいけない」 という人もいます。 リラックスさせることが大切だというのです。 その通りです。 しかし、その方の学級を見ると… 崩壊状態です。 授業中、立ち歩く、ゲームをする… これって、リラックスっていうのでしょうか。 緊張とは、 ・みんなでよりよいものを創り上げていこう という思い ・自分を伸ばそう ・目的に向かって進もう ・先生は、私のことを見ている ・手を抜いたら、すぐわかってしまう などなど。 いい意味でのプラスのプレッシャーも、緊張ですね。 緊張があって、リラックスがあります。 リラックス 力まないで一生懸命やること だと考えています。 「○○しなければいけない」 ではありません。 「○○できるんだ」 「○○して楽しい」 という状態です。 精神的時間が早く流れます。 「えっ、もう終わったの」 集中力も増します。 授業は、緊張と緩和(リラックスの一種)のくり返しです。 お笑いも同様ですね。 緊張ばかりの授業は疲れます。 頭に残りません。 緩和ばかりの授業も疲れます。 成長がありません。 「やった!」という手応えがありません。 緊張とリラックスの狭間を、意識してみませんか。 |
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指導 ← ◆ → 支援 私が、支援という言葉を使ったのは15年前です。 学習指導案ではなく、学習支援案と書いていました。 総スカンを食いました。 しかし…総合的な学習が始まると… 支援、支援。 指導するのはよくないという人まで出てきました。 教師の授業が大きく変わりました。 多くの授業で、指導すべきことを指導しないのです。 指導しないか「考えてごらん」 支援という言葉を使ったのは、子どもの主体の授業を目指したからです。 「教師がほとんど口を挟まない」授業をしていたからです。 ほとんどの場合、一言もしゃべりませんでした。 何をしているかというと…ビデオをまわしている。 廊下、玄関などを掃除している… 参観者は、大笑いしていました。 校長は渋い顔をしていました。 子どもたちに任せたのです。 板書も、子どもたちがしていました。 教師抜きでも、かなりハイレベルな授業を展開していました。 今の学級より、数段上です。 上からひっぱるのが指導です。 下から押し上げるのが支援です。 両方必要です。 何を指導し、何を支援するか。 これが、問題です。 |
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授業 ← ◆ → 行事 運動会前、学校は運動会モードに突入しました。 最近は、省エネがはやりです。 娘の学校は、17日が運動会でした。 9学期が始まって2週間ちょっとで本番です。 よくできたなーと感心します。 「○時間でやりました」 サークルのレポート発表。 その方は、短時間で仕上げたことを自慢げにいいました。 メンバーは、賞賛しました。 私だけが、?でした。 あまりにひどいできだったからです。 これがはっぴょうにあたいするのか? という感じでした。 組み立て体操、子どもたちは、技、順番を覚えただけ。 ただ演じているだけです。 「仕方がないでしょう。○時間しかできないのだから」 はたして、そうでしょうか。 行事は、普段の蓄積がものをいいます。 現在、高学年は組み立て体操に取り組んでいます。 ・ふざける、おしゃべりする ・だらける このようなことがありません。 さっと始まります。 無駄がないのです。 授業で得た態度、集中力などがもろに出るのです。 行事は、力を一氣に爆発させる場 です。 普段積み上げたものを爆発させ、次の次元へと導くのです。 行事をうまく使えば、子どもたちの力を一氣に引き出すことができます。 |
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見える ← ◆ → 見えない 人間が生きていくために必要なものがあります。 たとえば、食べ物です。 これは、目に見えます。 たとえば、空氣です。 これは、目に見えません。 見えないけれど、大切なものですね。 見えるもの たとえば、教室環境です。 子どもたちを育てる環境とダメにする環境があります。 教室にゴミが落ちている、ものが乱雑に並べてある… 黒板は、真っ白、植物は枯れている… このような教室があります。 子どもたちは、自分からゴミを拾おうとしません。 廊下に落ちているゴミを拾ってといわれると、 「ぼくが落としたんじゃない問」 といいます。 教室にゴミが落ちていない、机がきちんと並べられている… ロッカーが整頓されている、黒板は深緑… このような教室があります。 子どもたちは、進んで教室をきれいにします。 いわれる前に氣がつき、ゴミを拾います。 教室環境を整える、これは教師にしかできません。 教師の努力は、見えないのです。 卒業式前日、私は一人で体育館を掃除します。 2時間から3時間かかります。 あれだけみんなできれいにしても、わたぼこりがすごいです。 ちりとり3倍分になります。 卒業生に対する思いの具体化が、掃除という形になっています。 教師の思いは、見えません。 「女王の教室」の阿久津先生もそうですね。 「いい加減に目覚めなさい」(笑) 見えないものが、見えるものを支えています。 |
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