指導の盲点
よかれと思って指導していると、大切なことが見えなくなります。 盲点です。 死角といってもいいでしょう。 よかれと思っているので、見えません。 目の前にあっても見えないのです。 独善的になっているのです。 ですから、アドバイスされたことを素直に聴きません。 自分は悪くないと思って聴いているのですから、何も変わらないのです。 子どもがよくならない、力が伸びない… 指導の盲点です。 その中に入ってしまうと、見えなくなるのです。 もう一人の自分をつくり、違う視点で見ることが必要です。 簡単にいえば、発想を変えることです。 例えば、「わかる」ということです。 よく教師は、「わからない人」とか「わかった人」とか聴きますね。 この「わかる」とはどういうことでしょうか。 即答できない人が多いと思います。 つまり、自分でもよくわかっていないのに、子どもたちにいっているのです。 子どもは、よけいにわかりません。 「わかる」とは、理解するということでしょうか。 自分の考えに結びつくということでしょうか。 自分がわかっているから、子どももわかるはずだ 「これくらいは、わかるだろう」 これが、(この場合の)盲点です。 段階 「高学年になると歌わなくなる」 「高学年になるとあいさつしなくなる」 「高学年になると発言しなくなる」 このように思いこんでいると、現実はその通りになります。 思っていることが実現するのです。 日常的なことを考えてみましょう。 たとえば、朝食です。 「朝、ちゃんと食べる」大切さは、誰もが知るところです。 ところで、日本人が3食食べるようになったのは最近のことです。 「朝飯前」という言葉がありますね。 以前は、2食だったのです。 西式健康法では、2食を提唱しています。 「1日3食」「朝ご飯を食べないと力が出ない」 鵜呑みにしていると… 盲点になりますね。 フラットにものを見る、大切なことです。 できそうでなかなかできません。 固定概念というやつは、やっかいです。 染みついていますからね。 自分で意識できないのです。 空氣と同じようなものです。 自分は、見えていないという自覚がない限り先へは進めません。 見えていると錯覚しているのです。 私自身も、たくさんあります。 よく、見えていなかったことに氣づくことがあります。 |