教育の胸ぐらをつかむ
今の教育に対し、いいたいことはありませんか。
私はたくさんあります。
以前、本を出版したときのことです。書名を何にしようか迷っていました。
ふざけて
「『教育の胸ぐらをつかむ』はどうだ?」
といったところ、悪友たちは大賛成。
もちろん、編集者には相手にされませんでしたが…
ホームページを創るにあたって、思い出しました。
そうだ、いいたいことを書くのもいいな。
そんなわけで、この章はちょっと(いや、かなり)辛口です。
甘いものを食べながらお読みください(笑)
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教育界はおかしい |
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教育界、どこかおかしい。肝心かなめなことがおろそかにされている氣がしてならない。
心の教育が叫ばれているが、スローガンで終わっている。
ちょっと前は、「自ら学ぶ」「個性の尊重」…
今は「生きる力」…総合的な学習…
そして、基礎学力づくり…
スローガンは変われど、学校は変わらず。
子どもたちがよくなったという話は、ほとんど聴かない。
教育とは、言葉の操作ではない。
いくら言葉をかえても、現実は変わらない。
それがわかっていて、なぜ同じことをくり返すのだろうか。
いや、わかっていないのだろう。
具体的に行動するか否か
言葉をこねくり回している暇があったら、実践したい。
現実を変えるのは、教師しかいない。
そういう氣概を持った人がやるしかない。
やる氣のある人、共に進もう。
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発達段階 本当かな? |
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「あなたのやっていることは、発達段階にあっていない」
以前よくいわれた言葉である。
低学年担当が多かったので、よく「無理させている」といわれていた。
高学年を受け持つ
「高学年は、発言しない」
といっていた人が、
「6年生だから、発言できるのよね」
「…」
ああいえば、こういう。
認めようとしないのである。
自分にできないから無理だと決めつけるのはどうだろうか。
発達段階というのなら、高学年になったらもっと立派な行動がとれるのではないか。それをいうと、「崩れるのが、発達段階」だといわれた。
開いた口がふさがらない。
子どもがよくなると「私の指導がいいから」、よくならないと「発達段階」…
高学年が立派な学校、全国にどれくらいあるだろうか。
6年生が一番立派な学校をつくりたい。
今、学校づくりに挑戦している。
6年生が立派だと、だれも文句をいわない。
高学年担任になると
「高学年だからできるのよね」
といわれる。
笑うしかありませんな。
そろそろ、人のせいにできないシステムが導入されそう。
これで、少しはプロが増えるかな?
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大変だからやめましょう |
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学校で何かをやろうとすると、すぐに反対する人がいる。
決まり文句は、「大変だからやめましょう」。
自分が忙しくなるからやらないというのである。
普段は、「子どものために」といっているのに…
どういうことだろうか。
私たちは教師である。
子どものために何かをするのは当然だと思う。
それで、給料をもらっているのだから。
手抜きをして、子どもが育つか!
もし、自分の子どもが手を抜く教師に受け持たれたら、どうする?必ず悪口をいうだろう。
「子どものためなら、何でもやります」
これが熱血教師の台詞である。 |
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一生懸命やっています |
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クラスがよくならないとき、学校がよくならないとき「私は、一生懸命やっているんです」という人がいる。
どんな仕事であれ、一生懸命やるのは当たり前ではないだろうか。
レストランで頼んだ料理が、1時間待ってもこなかったとする。
「ちょっと、いつまで待たせるの」
と文句をいったとしよう。
「私は一生懸命やっているんです」
といわれらどうだろう。唖然とするのではないか。
私たちは、子どもの力を伸ばしてなんぼの商売である。
「一生懸命やっている」は免罪符にならない。あたりまえのことである。
しかし、「一生懸命やっている」で通ってしまうところが怖い。
一生懸命は、免罪符にはならない。
一生懸命やっているは、人が感じることであって、自分がいうことではない。 |
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テストが同じなのは? |
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人によって、教え方が違う。重点も違う。ねらいも違う。しかし、同じワークテストを使うのはどうしてだろうか(特に国語)。よくわからない。すくなくとも、指導したことに対する評価なのだから、テストは自分でつくるべきではないだろうか。
私の場合、テストは全部記述式である。「○○について書きなさい。制限時間は、○分です。何を見てもいいです。ただし、原稿用紙10枚以上書くのが条件です」なんていうテストである。
口でいくらいいことをいっても、行動は? |
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子どものせいにするな! |
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指示が悪いために、子どもが騒ぐ。うまくできない。それなのに、自分のことを棚に上げて子どもを怒る。
子どものせいにする教師が多い。
人のことをいう前に、自分のやっていることを振り返るべきである。私の見るところ、99パーセント教師が悪い。ポイントをはずしているのである。押さえるべき点を押さえていないのである。それに氣づいていない。「わたしは、指導しています」という。
効果があって初めて指導というのである。ポイントをはずした指導は、指導ではない。徒労である。
子どものせいにするなかれ!
すべては教師の責任である。
すべては自分の責任 と考えるのがプロである。 |
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子どもにはいうくせに |
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「進んで意見を述べなさい」 子どもにいう人は多いが、自ら実践している人は少ない。研究協議会などでは、指名されないと発言しない。矛盾である。これはどういうことだろうか。
教師自身ができない(やらない)ことをやらせているのである。こんな教師に、子どもがついていくだろうか。
子どもたちの純真な目は、ズバッと本質を見抜く。子どもがいうことを聴かないのは当然だろう。言行不一致を見透かされているのだから。
教師自ら実践したいものである。 |
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学校評価
毎年おこなわれる学校評価。
膨大な時間が準備、会議に費やされる。
それでいて、学校は少しもよくならない。
評価のための評価になっている。
この時間を、他のことに使いたい。
教材研究にあてたい。
「子どもを伸ばすことができたか」
「子どもの可能性を引き出すことができたか」
こそ評価すべきだろう。
この点を評価している学校がどれくらいあるか?
分掌の仕事の評価など、担当で処理すればよい。 |
予言
学校を選べる時代になった。
これから、教師を選べる時代がくるだろう。
どこからも引き取り手がない教師は、自由契約、任意退団…?
今、あぐらをかいている人は大変なことになるだろう。
実力ある教師にスポットが当たるだろう。
足を引っ張られなくなるだろう。
2002年
激動の年。
新指導要領、「総合的な学習の時間」に、引っかき回されるだろう。
内容、時間数に目が向き、子どもが忘れ去られるだろう。
日本の教育界 予言 2001
新指導要領がきっかけで…
子どもが荒れます。
低学力、学級崩壊
ますますさかんになるでしょう。
「子どもを伸ばす」
ということが忘れられます。
「総合」をどうするか
時数をどう計算するか
などなど。
枝葉末節に目が向きます。
私は(極端な話)、時数、総合など
どうでもいいと思っています。
くりかえしますが「子どもをどう伸ばすか」
この1点につきます。
おそらく、語られることはないでしょう。
本当の意味で。
基礎学力づくり
取り組むところも増えるでしょう。
しかし、そう甘いものではありません。
たいていの学校は。うまくいかないでしょう。
教師が勉強していないのです。
子どもが勉強するわけありません。
読・書・算
これをやるだけでも、大変です。
「一人ひとりに力をつける」…
口で言うのは簡単ですが…
実現となると…
難しいです。
教師の意識が変わるといいんですけどね…
変わらないでしょうね。
ぬるま湯軍団は。
淘汰されるまで。
レベルが低い、意識が低い教育界。
ちょっとやれば、抜きんでるのです。
そして…多くの人が錯覚します。
「自分は実力がある」と。
上には上があります。
理想が高くなれば、満足していられませんね。現状に。
もっと、もっとやりたくなるはずです。
> だけど、誰でも、やろうと思えば、
> できる実践でもあります。
私は、できないと思います(笑)
奥が深いですから。
> みんなが始めたら、ピンチでもあります。(^^;
こういう意識も大切だと思います。
> やはり、牽引力になるためには、
> もっともっと腕を磨かないといけないですよね。
> そして、引っ張りつつも、
> 教師集団にもぐり込んで、押し上げる。
その通りですね。
実力は、裏切りません。
他人よりも、まずは自分。
そして、オーラが出るようになると…
他人に影響を及ぼすようになります。
全国レベルで、展開したいです。
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手抜き
手抜きをする人がいる。
手を抜いて、子どもが育つのか?
手を抜いて、子どもが伸びるのか?
その教師自身が「手抜き」を子どもに教えている…
全力を出すところがスタートということが、わかっていない。
若くても全力でぶつかっている教師の学級は伸びている。
子どもに思いが伝わっている。
熱い思いが。
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